テニスから見る「社会に通用する人材像」の考察
今回はテイストを変えて、ある種社会学的な、哲学的なテーマにしてみました。
途中熱くなって長くなってしまいましたが、お付き合いいただけると幸いです。
そもそも「テニス」というスポーツとは
テニスというスポーツは、肉体的、身体的な能力だけではなく、他のスポーツと比較して、特に精神な要素が試合を左右されるとされています。個人競技といえば、ゴルフ・ボクシング・柔道・などなどが挙げられますが、特定の大会を除き、試合中に他者からのアドバイスが禁じられている稀有なスポーツです。
ゴルフでは常にキャディがいますし、似たようなラケットスポーツである、卓球でいえば、ゲーム間やタイムアウトでコーチからの指示を仰ぐことができます。他の個人競技と比較しても、2~4,5時間も選手一人ですべて解決する競技は他に思いつきません。(他にあったらすみません)
また、トップ100レベルの選手は、ヒッティングコーチ、戦略コーチ、トレーナーと同時に、メンタルトレーナーをツアーに帯同させています。これは、テニスというスポーツにおいて、メンタルが重視されていることを示しています。
休職中、仕事のことを考えることと同時に、テニスを通して頭を使う場面が多くあり、言語化してみたいと思い、記事にしてみました。
プロとアマチュアの「差」
私自身、かつて日本のトップレベルで世界を転々としていたプロテニスプレーヤーの指導をご縁があって受けています。その指導内容は、簡単に言えば単にフィジカル面の強化ではなく、メンタル面(思考方法)の強化です。指導を通じて、プロとアマチュアとの「差」を感じる場面は幾度となくありましたが、フィジカル面はあくまで人間としてのキャパシティ内の間の闘い(100m走で10秒を切るか切らないか、僅差の闘いをしているように)で収まるのに対し、メンタル面ではプロ・アマ間で大きな差があることに気付きました。また、「プロ」の間でも大きな差があると感じています。当然、「メンタル」は日によって違いますし、健康状態、肉体状態、天気なんかにも左右されるものですが、前述した100m走に例えると、プロは当然のごとく10秒を切るタイムをコンスタントにたたき出す(特にトッププロは一番大事な場面で8秒台を出す化け物)一方、アマチュアは1日かけても走り切ることができていない、それほどまでの「差」を感じました。後ほどこの「差」については詳述したいと思います。
テニスはその人の「本性」が現れる競技
FBIの捜査官が、残された碁盤を見て、犯人の人間像を推定し、逮捕に結びつける。そんなアメリカドラマを見ていながら、テニスも一緒だと感じました。
テニスはショット一つとっても、何百通りもの選択肢があります。それが複数回ラリーとして続くわけですから、何億通り、何兆通りものパターンが生まれます。
ある人は我慢強く、がむしゃらに球を拾うプレースタイル、ある人は途中まで調子よくプレイしていても、途中で切れてしまう。ある人は日によって波がある。ある人はここぞという場面で力を発揮することができない。
これらはすべてにじみ出たその人々の本性であり個性です。私はそれを観察するのが好きです。笑
「テニスで通用するメンタリズム」は「社会=仕事に通用するメンタリズムか」
この問いには「YES」と答えたいと思います。
テニスで必要とされるメンタリズムとは、プロに伝授された中で、思いつく限り挙げるだけで、以下の通りあります(あくまで試合の中で、というスコープにします)。
・自己ベストの一撃に大きな意味はなく、相手にとっていかに効率的な球を打てるか。
・自分が打ちたい球が来たから打つのではなく、自分が打ちたい球を打てるように相手を誘導するための戦略を練る。
・自己・他者を俯瞰的な観点から見る(2D的な視点ではなく3D的な視点)
・試合で出せる実力は良くて50%。そのために練習で100%を超える実力を引き出せるように努力する。(練習では常に自己ベストを追求する、試合では出しすぎない、コントロールできるように力をセーブする)
・1点で一喜一憂しない。失敗はして当たり前。
・失敗をしたときに結果に目を向けるのではなく、「なぜ」失敗をしたのかに目を向ける
・根本的な背景・目的を重視する。目先の得点ではなく、最終的な勝利を求める。
(仮にその試合で勝てなかったとしても、次、次々試合に活きてくる)
・「調子が悪い」日を大切にする。改善点が沢山見つかるから。逆に、「調子がいい日」は面白いと思わない。
・敗戦やミスは次に活かすもの。憂いている暇はない。
・トップに君臨し続けた、というよりついていけない周りが滑落していった。
(もちろん自身が努力をし続けた結果にある)
上記メンタリズムは、社会に足を踏み入れたことがある人なら誰でも、「ああなるほど」となる点があると思います。
では、自分自身はどうなのか
上記でこれだけ挙げた一方、テニスにおいては上記に挙げた内容は正直一つもできていません。一言でいえば、「テニスのセンスがない」のだと思います。では、なぜテニスでできないのか、自分なりに考えると、一点目は「判断する際の時間の無さ」二点目は「自分を客観的に見てもらう他者の存在の無さ」が挙げられると考えました。
テニスでは0.1秒でどこに打つか、何を打つか、次何をするか、試合の流れから、1セットの流れ、1ゲームの流れ、1ポイントの流れ、それぞれから見て何をすべきが最適か、を選択することが必要とされます。それが一点目に挙げた「時間の無さ」です。
二点目は端的に問題点を挙げるとすれば、自分が目の前に夢中になってしまうあまり、思考を放棄してしまうことに尽きます。テニスは、1ポイントの間に100m走ることもある(それもすべてスタート&ストップ)一方、ポイント間は20秒以内と定められています。当然、息も上がりますし、自分が打った球の行方が気になります。しかし、それをできるだけ排除して、試合そのものを客観的に見る第三者的な視点が勝利には必要不可欠となります。
一方、仕事では上記二点の課題はどうなっているのか、自己分析してみることにします。
一点目の「判断する際の時間の無さ」は仕事において、確かに限られた時間の中で重要な決断をしなければならない場面は求められますが、コンマ1秒の世界ではありません。蓄積されたエビデンス・今後の展望・戦略・そして自分(社員)の想いをもとに決断することが求められると理解しています。テニスでコンマ一秒の判断をトレーニングしている身からすると、この程度の決断は容易いように映るような気がしています。
二点目の「客観的に見る」という課題についても上記同様です。社会において、個人プレイの力量で仕事の出来不出来が決まる側面はそれほど多くないと感じています。社会(組織)を動かすためには「個」の力は不可欠ではありますが、「組織の力」がさらに絶対的に不可欠です。組織の中で行動するということは、絶えず他者の目(=客観的な視点)にさらされることになります。これもまた、常に試合中に孤独なテニス選手から見れば、甘い環境だと映るような気がしています。
テニスのメンタリズムをいかに仕事に活かすか
休職中、仕事からは半年間も距離を置いていました。にもかかわらず、戻ってからは明らかに仕事に対して前向きに、かつ探求心、モチベーションを高く望むことができています(4月病かもしれませんが)。休職前と休職後で何が変わったのか、考察してみたいと思います。
休職中は何も勉強はしていませんし、本もほとんど読んでいません。強いて言うなら、多くのアニメを観たことでしょうか(社会風刺的なものばかり)。
仮に休職前より休職後のほうが高いパフォーマンスを発揮できているとしたら、その要因は「テニス」で思考力を鍛えた成果にあると考えます。
私自身、物事を「自分主体」で考えることや、「自分の成功より失敗に目が行く」悪癖があることをテニス中に指摘されました。テニスは相手あってのスポーツであり、自分主体の考えだけでは、勝利には結び付けられません。また、失敗ばかりに目が行ってしまっては、攻撃的な、チャレンジングなプレーをすることができず、それもまた敗北につながります。
こうした悪癖を徹底的に排除するために練習を積みました。
まだ完全に克服できたとはいいがたい状態ではありますが、確実に前進しています。
現に、仕事においても、相手あってのことなので、地味なようですが、自分の実現したい未来のために根回しをすることを覚えました。根回しをしたうえで、理路整然と話せば、上席すらも自分の想いを汲んでくれる、よって、自分のしたいこと、実現したいことを行動に移すことができるようになりました。また、一つの失敗よりも、未来に何をしたいのか、その未来のために何をすべきか、といった思考回路になり、前向きに・かつ論理的に自身のすべき行動を位置づけられるようになりました。この2点の前進だけでも、自分にとっては大きな2歩となるでしょう。
さいごに
ひたすらにテニスの事ばかり申し上げてきましたが、他のスポーツでも応用は十分に効くと思います。野球でもメンタルは重要視されますし、バスケットボールでも、コンマ1秒の判断が委ねられる場面は多々あります。つまり何が言いたいのかというと、自分が取り組んでいる趣味や好きなこと、すべてが自分の人生観に直結しており、仕事のみならず、自分の人生を豊かにするための胆力に繋がるということです。「何事も全力に」という言葉は耳が腐るほど聞くワードですが、案外捨てたものではないな、と私は思います。