パニック障害から社会復帰するまでの軌跡

社会人3年目のポンコツが社会復帰を目指すブログ

我々の感情を突き動かすのは何か?

こんにちは。皆様いかがお過ごしでしょうか。

今回も答えのないテーマになりそうです。

私自身、こうして何度もアウトプットし続けているうちに、答えのないテーマが好きなんだな、と、ようやく自覚し始めました。発信するって大事ですね。笑

 

今回このようなテーマにしてみたのも、暇をもてあそんでいるうちに、音楽、芸術、映像、本など様々なコンテンツに触れているうちに、「あ、いま自分の感情にトリガーがかかった!!」と感じるシーンに気付くことが多かったからです。

流行りの言葉でいうと、CX(customer experience)ですかね?

 

そもそも人間とは感情動物である

なんとなくそれっぽいことを、シェークスピアも言っています。

「人々の感情を動かす」と一口に言っても、けしてコピーライターなどに代表されるようなクリエイティブ職だけの話だけではないと考えています。

1人で魚釣りや農業を営んでいる完全自給自足の人は置いておいて(現代の日本にはまずいないと思いますが)、人と関わらない仕事というのはこの世に存在しないと考えています。

そこで重要なのは、「人は感情動物である」ということを各々が自覚することです。

 

この世の中にスーパー論理マンがいたとしても、その方も完全に論理だけでは生きていけません。なぜなら、脳は感情に支配されているからです。

どんな人でも、晴れた春のうららかな陽気で会話するのと、どんよりとした梅雨空の下で会話するのとでは、会話のテンションや弾み方が変わってくるものだと思います。

 

気候だけではありません。プライベートな事情で一喜一憂することだってあるでしょう。それがビジネスと全く関係のないことだ、と胸を張って言える人はほんの一握りだと思います。

裏を返すと、人とうまく付き合うには、「相手の感情を理解する」ということが前提にあります。もちろん人間なので、完全に相手のすべてを理解することは不可能です。何なら相手も自分自身を理解しきれていません。

ではどこから読み取るのか?それは、表情や口調、仕草ですよね。詳しいことは私も知識不足ですし、心理系の本を読んでいただければいいと思うのですが、今回はいったん割愛します。

 

ここからは個人的な思想の位置づけになるのですが、「相手の感情を誘導する」ことが人間関係をうまく築くコツだと考えています。

以前のブログでも書いたような気もしますが、何か一言添えてあげたり、実際に相手に触れたりすることで、相手の感情のスイッチを押してあげることがポイントです。

つまり、対面での会話においては、「要件+α」の「α」が相手の感情を動かす重要なポイントになるということです。その「α」が私たち自身の個性であり、他者との差別化を図る要点になると考えています。

※何言ってんねん!という方がいらっしゃればぜひ議論しましょう!いろいろな意見を聞きたいです!

 

本題に戻ります。

我々の感情を動かすのは何か?

 

結論から申し上げますと、人それぞれです。そりゃそうです。世の中同じ人間なんていないのですから。ですが、ある程度共通して人の感情を動かすものはあるのではないかと私自身は考えています。

 

批判を承知であえて定義づけるならば、「五感を刺激するもの」だと考えています。

味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚、どれも人間に備わった機能ではありますが、それなしでも生きていけることは事実です。

例えば、目をつぶって、完全栄養食を摂りながら無音の状態で横たわっていても生きていけます。

では、それぞれの機能について、人類が感情動物として進化していく中で備わっていったとしたら、なんとなく自然な気がします。

五感によって脳を刺激する、そして脳が発達していくといったように、です。

※これも無学で恐縮です。文化人類学に詳しい人がいたら教えてください。

 

 

#一旦固い文章はおいておきます

 

書いているうちに自分の無知無学を晒すだけのようになってきたので、方向性を修正します。

最近、様々な作品に触れている中で、クリエイターの魂を感じる場面が多々あります。

クリエイター自身も感情をフル活用し、私たち自身もその感情に同調するのです。

 

ここ数日で二本の映画を観ました。「Stand by me」と「クライマーズ・ハイ」です。

それぞれ全く方向性が違う映画ですが、私の感情は完全に動きました。

前者については少年たちの生まれ育った環境、そして両者の軋轢や葛藤、そして友情に、後者については主人公の新聞記者としてのプライドに(原作の本のほうが、より表現がダイナミックでのめり込みましたが)、いたく感動しました。

それらを結ぶ共通項は何か?というものを考えてみると、一つの解としては「個々から滲み出る個性とプライドの衝突」なのだと思います。

本気だからこそ人と人が衝突する、本気だからこそ感情が爆発する、そこに聴衆は巻き込まれるのです。

もちろんフィクションの世界の登場人物だけではありません。

本の一文をとっても、原作者と編集者の本気が伝わる、そんな本は読者の感情を揺さぶるのでしょう。

つまり、感情をかければかけるほど、アウトプットとして感情がこもった成果物になるのでは、と私見として結論づけます。

 

私自身はSEなので、プログラムに感情を込めることはできません。いかに効率よく動くか?の世界だからです。

しかし、どんなプログラムにもなぜ作るか?という要件が存在します。

そこに人間の感情がこもったら、より良いものが作れるのではないか。と信じています。

超定性的ですね。私はSEには向いていないのかもしれません笑

 

ですが、感情を動かすには感情しかない!とは短い生涯ではありますが感じている次第です。それがビジネスに活きるのかはわかりませんが。

この信念は少なくとも傷つくことはあれど、結果的に私自身の人生は豊かにしてくれるものだと信じています。

 

そんなこんなで今回も長文になってしまいました。

今回のトピックで興味がある方がいれば、ぜひお話ししましょう!

 

どうぞお体には気をつけて!私も気をつけます!!

君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか

 

春の陽気もうららかに、皆様いかがお過ごしでしょうか。

早速、売れ筋の本の丸パクリのタイトルにしてみました。

ちなみに私はまだ読んでいません。いつか読みます。必ず。。

 

私自身、欠勤、休職をし始めて早1年になろうとしています。

空いた時間に何をしようと、暗中模索の中、いろいろなことに手をだしていました。

 

例えば

・労働基準監督官試験に向けての勉強

社会保険労務士に向けての勉強

・ある都市への精神障碍者受け入れに向けた地方創成コンサルティング

・就労移行支援施設でのリハビリテーション

・相手の強さがカンストになるまで大富豪

・求人がある企業にひたすらに面接を打ちまくる

・売れ筋のビジネス書を読みまくる

・1日でアニメ1クールを見続ける生活を1か月続ける

・・・などなど

 

これだけやって、何が得られたのだろうと振り返ってみると、

ひとえに「おもいやり・義理人情」

が重要であると再認識しました。

 

結局、人は自給自足の生活を行うことは現状不可能で、必ず交易が必要となってきます。

つまり、“一人だけ“の力で現代生活を行い続けることは不可能なのです。

では、必ず発生する「人間関係」について、自分なりに考察してみました。

 

そもそも、人間はバックグラウンドも違えば、生まれ育った環境、現在抱えている目標や悩み、すべて異なります。そのような人々と円滑な関係を築くには、やはり人情の力だと思います。

 

極論、悩みの無い人間なんて存在しません。

その悩みの解決の一助となることができれば、人は必ず好意を寄せてくれるでしょう。

仮にその悩みを解決できなかったとしても、悩みを一緒に言語化することは、当人の心理的負荷の削減にもつながります。

「情けは人のためならず」とはよく言ったもので、私はその言葉が大好きです。

「情けは人のためならず」国家を創れば、最強の国家が出来上がると信じてやみません。

 

そんなたいそうなこと私には…

そんな人のことを助ける余裕なんて…

そんな方もいるでしょう。

 

そんな方は今は人の力を借りればいいのです。

そして、いずれその助けてもらった方々にお礼を言いましょう。

それだけで、幸せの連鎖が生まれてくるでしょう。

 

私は、そんな世の中がいつか訪れると信じてやみませんし、そのための努力はいとわない覚悟です。

 

さて、序章が長くなってしまいましたが、本題に入りましょう。

君たちはどう生きるか

表面的にとらえると、今後の私たちの職場、プライベート、家庭、老後それぞれ大切な軸があって、それをいかに守り、構築していくかのように捉えられます。

しかし、それら複数の「今後の自分」というものは、ある判断軸をもって行動すべきと私は認識しています。

 

私の場合は、「家族の安全」と「ワクワクできるか」です。

そのためには命を張って、守り抜いていきたいと考えています。

もう少し因数分解してみると、家族の安全とは金銭面はもちろん、病気や、孤独、親戚との関係性も含まれていると理解しています。

それぞれに因果関係があり、やや政治的要素も含まれています。

非常事態時の体制を考えることも必要ですし、策を立て、着実にこなしていくことが肝要だと存じます。

 

一方、ワクワクできるか、は直感です。

ある論文では、論理的思考のもと出した答えと、直感で出した答えと、結果得られる成果に優位差は殆ど見られないといわれています。

となれば、うだうだ考えているよりも、直感的に飛びついてしまうというのも、根拠に基づいた人生を幸せに送るための一つの技と考えてもいいでしょう。

 

前章にて述べた通りではありますが、どのコミュニティにおいても、義理人情は忘れてはいけません。いつでも忠犬ハチ公であっても、人生に悔いはないでしょう。

 

人生における信念と、今後の判断軸この両面を掛け合わせて、シナジー効果を生み出し、

より世界が豊かになりますように。というのが傲慢かもしれませんが、ささやかな私の願いです。

皆様も、まずはどうかお体にお気をつけて。

好きな歌(マスミサイル編)

私は泥臭い歌が好きだ。泥臭い生き方も好きだし、泥臭い人間が好きだ。

人間はプライドも当然存在する。ただ、それは幻想だ。人間の本質ではない。

私は大勢の会食が苦手だ。広く浅い付き合いが求められるからだ。

そんなものより、誰でもいい、何時間もその人の本心を知りたいし、自分という人間を知ってもらいたい。

そのうえでお互い相いれない存在であれば、それまでのことだ。

だが、それを乗り越え、互いを深く知りえた関係というものはもはや友情といっても過言ではないだろう。

 

ここでいったん私事を挟ませていただきたい。

昨年夏ごろから再度体調が悪化し、再び休職に至ってしまっている。

今回は前回ほど深刻な症状ではなく、1か月ほどしたらだいぶ楽になっている。

現在は再発防止のために様々な策を練っているところだ。

 

話は戻ろう。私は泥臭い歌が好きだ。もちろん他の音楽も好きなものは好きだ。

では、本当に好きな歌の共通項として何があるだろう?と考えたとき、

バンドマンとしての覚悟が表現された曲になると考えた。

ここは言語化できないが、要は魂を感じ取った曲となるのであろう。

 

ここまで話しておいて、照会せずにはいられないバンドがある。

ぜひ興味があればYoutubeなどで聞いてみてほしい。

 

ザ・マスミサイルの「教科書」という歌だ。

歌詞一つ一つに熱くなる前に、ざっとバンドの来歴を紹介したい。

2000年中頃、青春パンクブームの波に乗じて、「今まで何度も」という曲で、

NARUTOのEDを担当したこともある、一度は売れたバンドだ。

その後はブームの波が去り、メジャーレーベルからの解約となった。

その後もメンバーの入れ替わりなどもありながらも、2010年半ば、

再度メジャーレーベルからのオファーを勝ち取る。

ドラマのタイアップなどもあったが、その後はまた振るわず、

二度目のメジャー落ちを経験するも、現在も精力的にライブをこなす、

「決して諦めない」泥臭いバンドだ。

彼らの人生そのものが曲にも反映されていることがよくわかる。

 

さて、本題の「教科書」について自分なりの解釈を書き連ねていきたい。

しかしその前に、私とこの曲「教科書」の出会いを書かなければ本題に入れない。

私とこの曲が出会ったのは、今から10年以上前、中学1年生のころだった。

小学校6年生の時には反抗期で担任を交代させるまで追い込んでしまった経験もある。

そのような状態で入学した中学は閉鎖的で楽しいものではなかった。

周囲ともあまりなじめず、部活も面白いものではなく、ただただ日々を過ごすだけの何の取り柄もない少年だった私は、この曲に人生観を変えられた。

この曲を一言で表すならば、

“教科書通りの生き方なんかしないで、自分の心が持っている教科書に従って生きてみろ”

ということである。

以下、歌詞にしたがって私なりの解釈を書き連ねていきたい。

 

誰かが推奨した 誰かがお勧めをした

あなたが大切に持ってるその教科書をみせてみろ

何々「もう泣かないで」

何々「弱音吐かないで」

俺ならもう少し無様に人間らしく生きたいわ

 

開始10秒でやられてしまうようなパンチワードだ。

そもそも人間というものは一人ひとりバックグラウンドも違えば、個性も違う。

当然だ。その人間たちに一律の教科書を用いて指導をしていくことに

違和感を感じない人はいないのであろうか。

(ここは反論の余地があると思いますが、後ほど解決しますのでありからず)

 

そして、人間とは外面だけよくしていても、いつかパンクしてしまうことが

暗喩されていると考える。

内面を、弱い部分をさらけ出してこそ、本当の人間らしさなのではないだろうか。

 

※あゝ負けたらリベンジだ あゝ泣いてもまた笑う

おかたい本には載ってはいないこと

あゝ弱音も吐きまくる あゝ見事に振り返る

弱い姿 振り向いた顔 全部見てあげる※

 

当然ながら教科書にはそんなもの書いてあるはずがない。

だが、人間として生きていくうえで、教科書に書いてあることを実用する以上に、

こうした処世術といったもののほうが、使いどころは多いのではなかろうか。

 

人から好かれたくて

やっぱ人気者でありたくて

言いたい事やテンションの低さを隠す君は最高だ

言ったら煙たがられる

だけどそれでも正しい事

そいつを悩んで苦しんで言っちゃう君も最高だ

ちょっと無理に笑ってるだけ

言いたい事も言ってるだけ

「楽しそうだね」そう言われる事にしがみついてるだけ

別にたいした事ではない

むしろたいした奴ではない

だけど心配されて慰められるほど小さくはない

 

プライドと他者からの視点に葛藤を覚えるフレーズが並んでいる。

だが、ここででてきている「君」は類推するに日が持たずにつぶれてしまうだろう。

ちょっとした無理の積み重ねが破綻を招いてしまうことは私が経験している。

 

あゝ負けたらリベンジだ

あゝ泣いてもまた笑う

おかたい本には載ってはいないこと

あゝ弱音も吐きまくる

あゝ見事に振り返る

いったい何をびびってるんだ 君の人生だ

 

そうだ。君の人生だ。僕の人生だ。誰に決められるものでもない。

人生の主導権は他の人(相対的価値観)ではなく、自分(絶対的価値観)なのだ。

極論、好きに生きればいいのだ。

 

頻出英単語より

歴史の大切な流れより

君が感情のままに書きなぐった文章の方がいい

人間らしく生きてる

死ぬまでは生きようとしてる

君にそんな安っぽい教科書なんかは必要ないでしょ

 

ここは語弊があるので先に訂正しておく。基礎学力の構築を否定するものではない。

基礎学力の養成と、「人間としての自我の構築」

どちらに比重を置くべきかという点に警鐘を鳴らしているものだと私はとらえている。

そして、人間は死ぬまで人間なのだ。たかだか1cmの教科書冊子なんかより、はるかに人生について考えることのほうが重要だ。

 

 

泣き方1つとっても

笑い方1つとっても

誰かに教わった訳じゃないんでしょ

オリジナルでしょ

人間らしく生きてる

死ぬまでは生きようとしてる

君にそんな安っぽい教科書なんかは必要ないでしょ

何にも読まなくていい

あなたが眺めてる景色の方がもっと素晴らしい

何にも読まなくていい

勉強放棄する訳じゃないんだよ

そうわかるでしょ

 

上記で散々否定してきたが、ついに歌詞にも記載されている。

勉強(教科書通りの)を放棄するのではない。

今自分の周りにいる人、モノ、景色、音楽、すべてが自分の教科書なのである。

 

バイバイ バイバイ さよなら教科書よ

もう少しだけ人間らしく生きさせてくれないか

バイバイ バイバイ 僕らのこの教科書はまとめも考察もない

泣き方1つとっても 笑い方1つとっても

誰かに教わった訳じゃないんでしょ オリジナルでしょ

人間らしく生きてる 死ぬまでは生きようとしてる

君にそんな安っぽい教科書なんかは必要ないでしょ

君にマニュアルどうりの教科書なんかは必要ないでしょ

 

歌詞の締めくくりとなる一節。

今壁にぶつかっているすべての人々を応援する歌詞だ。

人間関係で悩んでいる者、職場で悩んでいる者、試験に受からず苦悩する者。

みな、ほかの誰でもない自分なのだ。オリジナルの人間だ。

壁にぶつかった時、人は大きく自己肯定感を失うことが往々してあるだろう。

そのとき、この歌を思い出していただけると幸いだ。

きっとあなたの背中を押してくれるでしょう。わたしもその一人だ。

 

※参考

https://youtu.be/rD-7eRFvaUs

テニスから見る「社会に通用する人材像」の考察

今回はテイストを変えて、ある種社会学的な、哲学的なテーマにしてみました。

途中熱くなって長くなってしまいましたが、お付き合いいただけると幸いです。

 

そもそも「テニス」というスポーツとは

テニスというスポーツは、肉体的、身体的な能力だけではなく、他のスポーツと比較して、特に精神な要素が試合を左右されるとされています。個人競技といえば、ゴルフ・ボクシング・柔道・などなどが挙げられますが、特定の大会を除き、試合中に他者からのアドバイスが禁じられている稀有なスポーツです。

ゴルフでは常にキャディがいますし、似たようなラケットスポーツである、卓球でいえば、ゲーム間やタイムアウトでコーチからの指示を仰ぐことができます。他の個人競技と比較しても、2~4,5時間も選手一人ですべて解決する競技は他に思いつきません。(他にあったらすみません)

また、トップ100レベルの選手は、ヒッティングコーチ、戦略コーチ、トレーナーと同時に、メンタルトレーナーをツアーに帯同させています。これは、テニスというスポーツにおいて、メンタルが重視されていることを示しています。

 

休職中、仕事のことを考えることと同時に、テニスを通して頭を使う場面が多くあり、言語化してみたいと思い、記事にしてみました。

 

プロとアマチュアの「差」

私自身、かつて日本のトップレベルで世界を転々としていたプロテニスプレーヤーの指導をご縁があって受けています。その指導内容は、簡単に言えば単にフィジカル面の強化ではなく、メンタル面(思考方法)の強化です。指導を通じて、プロとアマチュアとの「差」を感じる場面は幾度となくありましたが、フィジカル面はあくまで人間としてのキャパシティ内の間の闘い(100m走で10秒を切るか切らないか、僅差の闘いをしているように)で収まるのに対し、メンタル面ではプロ・アマ間で大きな差があることに気付きました。また、「プロ」の間でも大きな差があると感じています。当然、「メンタル」は日によって違いますし、健康状態、肉体状態、天気なんかにも左右されるものですが、前述した100m走に例えると、プロは当然のごとく10秒を切るタイムをコンスタントにたたき出す(特にトッププロは一番大事な場面で8秒台を出す化け物)一方、アマチュアは1日かけても走り切ることができていない、それほどまでの「差」を感じました。後ほどこの「差」については詳述したいと思います。

 

テニスはその人の「本性」が現れる競技

FBIの捜査官が、残された碁盤を見て、犯人の人間像を推定し、逮捕に結びつける。そんなアメリカドラマを見ていながら、テニスも一緒だと感じました。

テニスはショット一つとっても、何百通りもの選択肢があります。それが複数回ラリーとして続くわけですから、何億通り、何兆通りものパターンが生まれます。

ある人は我慢強く、がむしゃらに球を拾うプレースタイル、ある人は途中まで調子よくプレイしていても、途中で切れてしまう。ある人は日によって波がある。ある人はここぞという場面で力を発揮することができない。

これらはすべてにじみ出たその人々の本性であり個性です。私はそれを観察するのが好きです。笑

 

「テニスで通用するメンタリズム」は「社会=仕事に通用するメンタリズムか」

この問いには「YES」と答えたいと思います。

テニスで必要とされるメンタリズムとは、プロに伝授された中で、思いつく限り挙げるだけで、以下の通りあります(あくまで試合の中で、というスコープにします)。

・自己ベストの一撃に大きな意味はなく、相手にとっていかに効率的な球を打てるか。

・自分が打ちたい球が来たから打つのではなく、自分が打ちたい球を打てるように相手を誘導するための戦略を練る。

・自己・他者を俯瞰的な観点から見る(2D的な視点ではなく3D的な視点)

・試合で出せる実力は良くて50%。そのために練習で100%を超える実力を引き出せるように努力する。(練習では常に自己ベストを追求する、試合では出しすぎない、コントロールできるように力をセーブする)

・1点で一喜一憂しない。失敗はして当たり前。

・失敗をしたときに結果に目を向けるのではなく、「なぜ」失敗をしたのかに目を向ける

・根本的な背景・目的を重視する。目先の得点ではなく、最終的な勝利を求める。

 (仮にその試合で勝てなかったとしても、次、次々試合に活きてくる)

・「調子が悪い」日を大切にする。改善点が沢山見つかるから。逆に、「調子がいい日」は面白いと思わない。

・敗戦やミスは次に活かすもの。憂いている暇はない。

・トップに君臨し続けた、というよりついていけない周りが滑落していった。

 (もちろん自身が努力をし続けた結果にある)

 

上記メンタリズムは、社会に足を踏み入れたことがある人なら誰でも、「ああなるほど」となる点があると思います。

 

では、自分自身はどうなのか

上記でこれだけ挙げた一方、テニスにおいては上記に挙げた内容は正直一つもできていません。一言でいえば、「テニスのセンスがない」のだと思います。では、なぜテニスでできないのか、自分なりに考えると、一点目は「判断する際の時間の無さ」二点目は「自分を客観的に見てもらう他者の存在の無さ」が挙げられると考えました。

テニスでは0.1秒でどこに打つか、何を打つか、次何をするか、試合の流れから、1セットの流れ、1ゲームの流れ、1ポイントの流れ、それぞれから見て何をすべきが最適か、を選択することが必要とされます。それが一点目に挙げた「時間の無さ」です。

二点目は端的に問題点を挙げるとすれば、自分が目の前に夢中になってしまうあまり、思考を放棄してしまうことに尽きます。テニスは、1ポイントの間に100m走ることもある(それもすべてスタート&ストップ)一方、ポイント間は20秒以内と定められています。当然、息も上がりますし、自分が打った球の行方が気になります。しかし、それをできるだけ排除して、試合そのものを客観的に見る第三者的な視点が勝利には必要不可欠となります。

 

一方、仕事では上記二点の課題はどうなっているのか、自己分析してみることにします。

一点目の「判断する際の時間の無さ」は仕事において、確かに限られた時間の中で重要な決断をしなければならない場面は求められますが、コンマ1秒の世界ではありません。蓄積されたエビデンス・今後の展望・戦略・そして自分(社員)の想いをもとに決断することが求められると理解しています。テニスでコンマ一秒の判断をトレーニングしている身からすると、この程度の決断は容易いように映るような気がしています。

二点目の「客観的に見る」という課題についても上記同様です。社会において、個人プレイの力量で仕事の出来不出来が決まる側面はそれほど多くないと感じています。社会(組織)を動かすためには「個」の力は不可欠ではありますが、「組織の力」がさらに絶対的に不可欠です。組織の中で行動するということは、絶えず他者の目(=客観的な視点)にさらされることになります。これもまた、常に試合中に孤独なテニス選手から見れば、甘い環境だと映るような気がしています。

 

テニスのメンタリズムをいかに仕事に活かすか

休職中、仕事からは半年間も距離を置いていました。にもかかわらず、戻ってからは明らかに仕事に対して前向きに、かつ探求心、モチベーションを高く望むことができています(4月病かもしれませんが)。休職前と休職後で何が変わったのか、考察してみたいと思います。

休職中は何も勉強はしていませんし、本もほとんど読んでいません。強いて言うなら、多くのアニメを観たことでしょうか(社会風刺的なものばかり)。

仮に休職前より休職後のほうが高いパフォーマンスを発揮できているとしたら、その要因は「テニス」で思考力を鍛えた成果にあると考えます。

私自身、物事を「自分主体」で考えることや、「自分の成功より失敗に目が行く」悪癖があることをテニス中に指摘されました。テニスは相手あってのスポーツであり、自分主体の考えだけでは、勝利には結び付けられません。また、失敗ばかりに目が行ってしまっては、攻撃的な、チャレンジングなプレーをすることができず、それもまた敗北につながります。

こうした悪癖を徹底的に排除するために練習を積みました。

まだ完全に克服できたとはいいがたい状態ではありますが、確実に前進しています。

現に、仕事においても、相手あってのことなので、地味なようですが、自分の実現したい未来のために根回しをすることを覚えました。根回しをしたうえで、理路整然と話せば、上席すらも自分の想いを汲んでくれる、よって、自分のしたいこと、実現したいことを行動に移すことができるようになりました。また、一つの失敗よりも、未来に何をしたいのか、その未来のために何をすべきか、といった思考回路になり、前向きに・かつ論理的に自身のすべき行動を位置づけられるようになりました。この2点の前進だけでも、自分にとっては大きな2歩となるでしょう。

 

さいごに

ひたすらにテニスの事ばかり申し上げてきましたが、他のスポーツでも応用は十分に効くと思います。野球でもメンタルは重要視されますし、バスケットボールでも、コンマ1秒の判断が委ねられる場面は多々あります。つまり何が言いたいのかというと、自分が取り組んでいる趣味や好きなこと、すべてが自分の人生観に直結しており、仕事のみならず、自分の人生を豊かにするための胆力に繋がるということです。「何事も全力に」という言葉は耳が腐るほど聞くワードですが、案外捨てたものではないな、と私は思います。

身近な人がパニックになったら

最近ではジャニーズのタレントが相次いでパニック障害で休養するなど、

知名度が上がってきているこの病気ですが、100人に3人はかかる病気と言われています。

 

皆様の周りの方でも、パニック障害で苦しんでいる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

パニック発作が起きると、苦しんでいる本人はもとより、周囲にいる方々もどうしたらいいのか途方に暮れることもあるかと思いますので、記事にしてみました。

 

結論から申し上げると、パニック発作が起きたとき、発作が起きている当人からしてみて、一番助かるのは

とにかく放っておくこと・そっとしておくこと・その場から解放してあげること

につきます。

 

パニック発作とは、その人の症状にもよりますが、たいてい以下の通りです。

過呼吸

・吐き気

・頭痛

・眩暈

※どれも予兆なく、急にやってきます。

 

急にしゃがみこんでその場から動けなくなることもありますが、数分たったら回復します。一見、死にそうに苦しんでいるように見えても、死ぬことなんてありません。

 

もし、身近な人でパニック障害を持っている人がいたとしたら、過干渉せずに、

「ああ、いつものことね。そっとしておこう」くらいのほうが、患者にとっても心理的負担が少なく、かえってありがたいです。

※あくまで私の場合ですので、当人に確認してみてほしいですが・・・

 

しばらく時間がたって、落ち着いたら患者のほうから元通り会話できるようになった旨を伝えられるので、その時に「大変だったね」と一言言ってあげましょう。

パニック障害と薬

2018年7月にパニック障害と診断されてから、実にいろいろな薬を試してきました。

それぞれの薬に副作用があり、まさに一長一短といった感想です。

 

なぜ薬を飲むようになったのか

パニック障害の直接の原因は、脳内でセロトニンが正常に分泌されないことに起因します。

抑鬱薬はセロトニンの量を調整する働きをするため、鬱病だけではなく、パニック障害にも効くといわれています。

ちなみにセロトニンとは、幸せ物質ともいわれており、幸福感や、不安を軽減するはたらきをする物質のようです。ググったほうが早いですが。

 

飲み始めは副作用との闘い

パニック障害と診断され、まずはレクサプロという薬を飲み始めました。

就寝前に飲むのですが、この薬もまた曲者で、セロトニンを分泌するために脳にだけ働けばいいものの、胃や腸も刺激するようで、深夜に強烈な吐き気で目覚めてしまいます。

通常、3~7日程度でこうした副作用はなくなるようですが、私の場合は2週間続きました。

日中も胃や腸を刺激し、気分が悪いため、鬱病の薬で鬱になりそうでした。。

 

レクサプロの副作用を軽減させるため、睡眠薬も処方されるのですが、これもまた様々な種類があり、最初は軽いものから始めてみました。

しかし、前述のように、深夜に覚醒してしまうため、より長時間効くものに切り替えました。

長時間効く睡眠薬を飲んでからは、深夜に中途覚醒することは減ったものの、朝まで眠気が残り、朝起きることができなくなりました。

自分に合った薬選びというものも、またパニック障害ビギナーにとっては難しいものと感じました。

 

結局は睡眠の質を取ることに

紆余曲折あったものの、深夜に中途覚醒してしまうのは、精神衛生上もよくなく、多少の寝坊を覚悟してでも、睡眠をとることにしました。

(おかげで現在は毎日10時間以上寝ています。。いいのか悪いのか。。)

 

2019年1月現在では、以下の薬を飲んでいます。

レクサプロ20mg・・・抑鬱

スルピリド100mg・・・抑鬱

ブロチゾラム0.25mg・・・睡眠導入剤

ランドセン0.5mg・・・抑鬱

アモキサン50mg・・・抗鬱剤

 

正直、薬の効果がわからない

2019年1月現在、医者に処方された薬を規則正しく飲んでいるものの、

薬の効果を実感できていません。(朝は起きられないですが)

まだ推測の域を出ないですが、私の場合、薬だけでは根本的な寛解には至らないため、

カウンセリングなどの治療も検討する必要がありそうです。

今後カウンセリングも行っていきたいと考えていますので、成果はまた別途記載したいと思います。